2010年9月15日水曜日

歴史

2007年9月8日(土)
 午前中「ムラ・シマ講座」(湧川)を行う。7月と8月は台風と大雨で開催することができませんでした。今日は天気がよく、青空は高く感じます。かすかな秋の気配なのかもしれません(日差しは、まだまだ強いです)。

1736年の湧川村の新設は以下のようなことが読み取れる。人口の増加や蔡温の山林政策だと記されるが、それだけではない。以下のようなことが読み取れる(詳細については別稿で紹介する)。

 ・現在の湧川地域は1690年以前は今帰仁間切の内である。
・1690年頃今帰仁間切から羽地間切域となる。
・1736年に湧川地内(羽地間切)にあった5つの村(呉我・振慶名・我部・松田・桃原)を現在地へ移動させる。
・1736年に5つの村を移動させると、そこは今帰仁間切域とする。 
・1738年に湧川村を創設村する。
・『琉球国由来記』(1713年)に出てくる呉我・松田・振慶名・我部村は現在の湧川内にあった、
・上書の我部巫火神(我部・松田)・我部村神アシアゲ・松田村神アシアゲ・掟神火神・呉我村神アシアゲ
は湧川地内にあった時代である。
・1738年に新設された湧川村に御嶽や神アシアゲをつくり祭祀を行っている。
・我部と松田の村は屋我地島へ、振慶名は羽地間切の中央部へ(羽地大川流域)、呉我村は羽地大川
の河口域に移動する。
・村が移動するがノロ管轄は変わることなく我部ノロ管轄である。(移動前は近隣にあった村が遠距離、
あるいは海越となるが変更されることはなかった。
・現在でも湧川のウプユミとワラビミチの時、我部・呉我などから神人が湧川にやってくる。
・『琉球k国由来記』(1713年)の頃の今帰仁間切の地頭代は「湧川大屋子」であったが、新設村に湧川村
と名づけ、その後の資料を見ると今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上を名乗るようになる。
・村移動は羽地大川沿いの開拓と屋我地島の開拓にあったと見られる。
・湧川にある奥間アサギは奥間親雲上の家跡とみられる。
・奥間親雲上は羽地間切我部村(1736年移動前なので現湧川地内)生まれである。
・奥間親雲上は羽地間切親川村地頭代立川親雲上が問題を起こし家内取揚げ、流刑にされたとき、
南風掟役であったが職を辞し今帰仁間切勢理客村に屋敷を構えた。今帰仁間切の役職を戴き首里
大子、さらには地頭代までなる。
・奥間親雲上の生まれ故郷である我部村(現湧川地内)の祭祀と今でも密接に関わっている。
・奥間親雲上は雍正5年(1727年死去)している。現湧川地内にある奥間アサギは奥間親雲上の
今帰仁間切勢理客村に移動する前の屋敷とみられる。そのアサギ内には火神が祭られている。
・勢理客村に移った奥間親雲上の一族は今帰仁間切の地頭代や湧川親雲上や首里大屋子・兼次
親雲上・諸喜田大屋子などの間切役人を出している(勤職書あり)。
・その家筋は嶋スンコノロクモイ(勢理客ノロ)を出す家でもある。
・奥間親雲上の墓所はヤガンナ島にあった。


 
▲奥間親雲上の屋敷跡とみられる奥間アサギ     ▲奥間親雲上一族の墓のあるヤガンナ島


湧川の講座が開催できました。台風や大雨で順延になっていました。湧川のヌルドゥンチ跡、御嶽、ムラガー、神アサギ、新里ヤー、そして塩田跡まで行きました。

 
      ①湧川のウタキ                 ②湧川のヌルドゥンチ跡

 
      ③湧川のウタキの中のイビ           ④ムラガー

 
        ⑤湧川の神アサギ              ⑥新里ヤーの位牌や図像  

 
       ⑦湧川の塩田跡                        ⑧報告会


第3回 2007年8月11日(土)(7月は台風のため中止。8月へ)
第15期(第3回) ムラ・シマ講座開催のお知らせ
 雨のきせつも過ぎて、暑い夏がやってきましたね。でもあと少ししたら、みなさんが待ちに待った夏休みです。暑さに負けずがんばっていきましょう。
さて、第3回のムラ・シマ講座は、「湧川(わくがわ)」のちょうさです。湧川がどんな成り立ちになっているか。また、でどんな発見があるのか、お楽しみに♪
☆ 8月11日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合
↓ 出席の確認
↓ 9:40 (湧川へバスで出発)
↓ 湧川の公民館着(10:00)
↓ 神人のヌルドゥンチ
↓ 湧川のウタキ(イビ・イビヌメー)
↓ ムラガー
↓ 神アサギ・奥間神アサギ
↓ 新里ヤー
↓ ヒチャガブ(スガーのウタキ)
↓ 塩田跡
↓ 歴史文化センター(12:30 解 散)

☆ 持ってくるもの・・・・・2Bのえんぴつ、消しゴム、タオル、水とう、ぼうし
☆ かならず運動ぐつをはいて来てください! サンダルやぞうりではダメ。ケガをします。

♪お休みをするときは電話してください! 56‐5767 歴史文化センターまで
♪雨がふったら、歴史文化センターの中で行います。
台風が近づいています。台風の場合はお休みになります。そのときは、前日に電話で連絡します(連絡がつかないばあいがあります。そのときは、電話で確認おねがいします。)
【湧川の歩み】
 湧川は1738年に創設された村(ムラ)です。現在の湧川から呉我山にかけて、呉我・振慶名・我部・松田・桃原の5つの村がありました。5つの村は羽地間切(現在名護市)ですが、1690年以前は今帰仁間切の内でした。1690年頃今帰仁間切と羽地間切の境界線の変更があり、それらの5つの村とその場所を羽地間切の領地としました。ですから、『琉球国由来記』(1713年)では、羽地間切の村となっています。

 その後、1736年に蔡温は狭い場所に5つの村があり、山を切り開いて山が荒れるので村を移すことになります。呉我と振慶名は羽地間切(現在地)へ。我部と松田は屋我地島へ移動させます。(桃原村はどこへ?) 5つの村のあった場所は今帰仁間切の領地とします。

 5つの村が移動した場所に1738年に湧川村を創設します。村を創設し山の管理が目的だったようです。新しく村が創設されると、そこにウタキや神人などを置き、他の同様の村の形態をつくりだします。他のからの移住者で作った村なので寄留士族が6割近くおり、今帰仁村(そん)内の他の村(ムラ)とは、言葉や生活習慣が異なっています。そのような歴史や文化を持った湧川の調査をします。

 昭和36年頃まで内海では塩づくりが盛んに行われていました。今でもヤガンナ島や海岸に塩田跡の石垣をみることができます。また、湧川地内に我部村があった頃のウタキや井戸、スガーのウタキ(塩のウタキ)が今でもあり、我部の人々が祭祀で訪れます。

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